アーティストとは
私は自分にこのアーティスティックなセンスがあるとは思っていない。どちらかといえば乏しいほうだと思う(いや、ないとっていも過言ではないな;爆)。ところで、いわゆる”芸術”ってのはなんなんでしょう。あまりにも漠然としていて、かといって身近な存在でもある。私にはよくわからないというのが正直な感想です。
特に、最近は芸術とポピュリズムとは無関係ではなく、むしろ芸術そのものの質や内容よりもポピュリズムの方が先行している気がします。人気があるもの=芸術性が高いと認識されることが多いんじゃないかなぁ。まぁ、どこまで評価している人が芸術性を感じているかどうかは不明ですが…。(というか誰もが感じる芸術性というのも胡散臭い)でも、実際のところ売れてナンボというのは事実でしょう。
友人のR’s Barさんはサラリーマンが芸術家であってもいいと言っていますが、私は逆の立場で、サラリーマンを経験することがあってもいいと思いますが、両立はしえないと思います。
ドラマ「GTO]の台詞ではありませんが、保険をかける人生では保険をかけない人には勝てないからです。むしろ、芸術家の渇望というのは、自分の生活のことよりもっともっと上の次元にあるものだと私は思います。だから生活の保障のあった上で行なう作品とそうでない作品はおのずと差がでてしまうと思います。
書かずにはいられない、描かずにいられない、という一種の禁断症状みたいなもので、それは世間一般の人が求める生(生活)のレベルとは違うと思います。その生へのこだわり以上のものを作品に傾けるからこそ、すばらしい作品が生まれるのではないでしょうか。
学生の頃、三島由紀夫賞の選考委員をしていた江藤淳先生は、そのときの受賞作「鹽壺の匙」の作者、車谷長吉氏を高く評価していました。彼の人生の苦悩をこめたこの私小説は、彼の人生が作品のために捧げられたかの印象を受けます。それほど厚くないこの私小説一冊のために20年の歳月をかける気概です。
私は芸術とはこういうものなのではないかと思います。それは生き方といってもいいかもしれない。誰かに感銘や勇気、底知れぬ共感を与えるのは、作品そのものもさることながら、作品かける執念ではないかと。
ヘルベルト・マルクーゼ(注)は「高度に発達した工業国の明らかな特徴のひとつは、美術、文学、音楽、そして哲学の大衆への普及である。つまり、それらは、日常の暮らしや労働の場での技術的設備の一部となり、社会における解放という機能を失ってしまう。」と言っています。
結局、現代に求められているのは人生を作品にかける芸術家の気概ではなく、どれだけポピュリズムを得られるかというマーケットメカニズムに翻弄されている(つまりは技術的設備の一部)ような気がします。
社会における解放には、ポピュリズムではなく人生を一つのことにかける気概が大切ではないかと思います。だから、長い間一つのことをなしえた人の言葉は人々に共感と説得力を与えるのだと思います。
私も分野が違いますが、保険を掛けずにやっています。だからこそ、見えるものというのもあると思います。誰かに評価されるためではなく、自分のために行なっていても、そこに結果が伴えばいずれ誰かがその気概を認めてくれるだろうと思っています。私はそれでいいと思っています。
(注)マルクーゼは私の主義主張とは基本的に意見の異なるフランクフルト学派の学者ですが、この意見には同意します。
相場の下落が続いているので、相場備忘録も更新しました。




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