先週末から母親がインフルエンザB(その割りに熱は出なかったようですが)にかかり、夕食を3日続けて作りました。母親一人ダウンするだけで、食事や洗濯、掃除が機能しなくなるということをまざまざと思い知らせれました。
思い起こすと、去年もちょうど今頃我が家は母親以外風邪に見舞われ、私も死ぬかもと思うほどの高熱を出したことを覚えています(こうやって日記のような備忘録をつけておくと、日付のような記憶はさらに鮮明に覚えていますね)
冷蔵庫にあるもので、それなりのメニューを考え料理を作るというのは大変ですなぁ。私はありあわせの材料でも適当に食べれるものは作ってしまうので、そこに大変さを感じませんでしたが、これが毎日365日果てしなく続くとなると、家事の大変さをつくづくと実感させられます(しかも、当然、家族全員分だしね)
リンゴジュースと仙人バナナが食べたいというので、近くのスーパーに行くと、あまおうという少し高いイチゴを発見。先日書いたように”いいものは高い”を実践してみるべく買ってみました。
美味しかったでぇー。調べてみると、”とよのか”の後継種らしく、今後順次この品種に変わっていくようです。
さて、題名の料理は最高の愛情表現法のひとつであるこれは私の造語ではありません(爆)
昨日たまたま観たTVで料理評論家の山本益弘氏が言った言葉です。
実はずーと書きたかったことが一つあるのです。昨今の社会荒廃の大きな要因の一つに家庭で食事を作らなくなったことがある、むしろこれこそが根本要因ではないかと思っている。
それは、上記の山本益弘氏の言葉からもみてとれるのではないでしょうか。
一マス計算で有名な広島の小学校では、家庭で朝食をきちんと作り食べさせることを学校側が家庭に要求しているようです。統計をとってみたところ、朝食をきちんと取る家庭とそうでない家庭、夜遅くまで起きていて睡眠時間が十分でない子とそうでない子では、学力に明らかな差がでるとのことです(当然、学力の高い=いい子ではありせんが…)
365日3食全部、料理をしなければいけないなんて暴論はいいません。ただ、最高の愛情表現のひとつである料理をどれだけ子供たちに作ってあげられるかどうかは非常に重要だと私は思っています。
できあいのものを買ってくることはあまりいいことではないでしょう。なぜなら、せっかく材料を買ってきて手を加えることで愛情と社会性を排除できるのに、買ってくればいいという社会性を持ち込んでしまっては無意味だからです。
そうなると、家族で食事をする意味合いが減少してしまいます。別に家で食べなくてもいい、食事が単に食欲を満たすことだけということになってしまいます。
この”社会性”を家庭に持ち込むがゆえに、様々な家庭内での問題が起こると私は思っているし、現在の貧窮からくる犯罪ではない、犯罪の増加の要因はそこにあるのではないかと考えます。
ただ、毎日家族全員の食事を作ることの困難さや大変さは理解しているつもりです。自分もたまーに料理を作ります。特に美味しいものを作ろうとなるとすごい手間がかかります。
材料だって一つの店で収まるわけがない。この店の品物が納得できなかったら、あちらの店へ。そんなことはしばしばです。買い物の労力と時間だけでヘロヘロになります(笑)。
出来上がるまでに、目に見えない下準備が必要です。手を抜こうと思えばいくらでもできる。でも、それじゃ美味しいものにはならない。野菜切るとき面取りをする、下ゆでをする、個々に味をつける等々。一つ手を抜けばそれだけ美味しさ度が減っていくのです。
だから、山本氏のいう料理は最高の愛情表現の一つという言葉が説得力のあるものに聞こえるのかもしれません。実感として理解できるのです。
家庭でこのような気を回すことは必要ないかもしれません。ただ、そういったことをどれくらいできるかが子供に対する愛情の表現法の一つだということは心に止めておいてもいいのではないでしょうか。
あーあ、とうとう書いちゃったよ。最近、女の陰湿さが嫌いだとか、女性天皇は反対だとか女性を敵に回すような発言ばかりしているなぁと思い書くの自重していたんですが…(汗)
そんな私は昨日から人生初の歯痛に悩まされるとともに、母親の風邪をもらったような疑念が生じています(爆)風邪気味で頭の歯止めが利かなくなったと読み流してください。
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