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敬語

 ここのところ、あまり読書をする気にならない日々が続いたのですが、移動時間がもったいないので、読書の時間に当てています。幸い、読書をするくらいの余裕はあるみたいです。
 ということで、読んだのが『国語審議会』(安田敏明著)。

 題名からして期待していなかったので、斜め読みで済まそうと思いましたが、最後の方に面白い記述がありました。

 先日も話題にした”敬語”に対する記述だ。
 この辺りの胡散臭さというものを、著者ははっきりと指摘している。

 国語審議は、敬語の使用はあくまで『自己表現』で主体的なものとしながらも、敬語を誤用してはならず、適切に使用しなければいけない、という。
 使用する場合には、

 すべての人は基本的に平等である。したがって、一方が必要以上に尊大になったり、卑下したりすることなく、お互いに尊重しあう気持ちを大事にしなければならない。 

 このような『相互尊重』の気持ちを基本として敬語を使うことが、現在も、また将来においても重要であろう。

 というもっともらしい見解を並べるのだ。
 著者も指摘しているが、『すべての人は基本的に平等』ならば敬語など必要はない。
しかし、『社会人は社会的立場を尊重すること』も敬意の表れだとして敬語を用いる。だとすれば、そこには『自己表現』や『主体性』などはない。

 結局、敬語を用いてることは規範に従うことに他ならず、『自己表現』を強調することで規範に従うことを自ら選んだと思い込ませる。
 そういった手法が気持ち悪いと著者は主張する。

 この件だけでもこの本を読んだ甲斐があるというものだ。

 このような論理のもつ気持ち悪さとは、『自己責任』や『自己表現』といった言葉であり、現代社会では成熟した自己が、この言葉に酔いしれる。

 これらの論理の気持ち悪さとは、簡単に言えば、自分たちの価値観に従えということだ。それをときには”共感”ともいう。
 そして、彼らの価値観に従わないものは排除するという本心を隠蔽しているから、気持ち悪いのである。

 やっぱり、私が実際感じたことは正しいような気がする。
 敬語というのは、あくまで規範であり、言葉ではない。
 言葉として捉えると「日本語独自」の奇妙な議論にしかならないからだ。

 敬語は社会規範なのだ。

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