成り上がりのための敬語
敬語とは規範である、先日書いた。
しかし、歴史を辿ってこの敬語の使われ方を観てみると、ちょっと違った風景がみえてくる。
そもそも、敬語はなぜ存在するのだろうか?
『敬語で解く日本の平等、不平等』では、敬語は上位者と下位者をつなぐかけがえのない橋だったという分析がなされている。
たとえば、ノルマン王朝。彼らはフランス語で話をした。イギリス国民は勿論英語だ。
そこには会話はない。階級が違うから言葉を交わす必要性がないのだ。
だから、日本のような敬語は必要なかった。
世界の至る国で、敬語がないのは歴然とした階級が存在したからだ、というのだ。
一方、日本では古来から敬語を使って支配層と被支配者層が対話をしてきた。歴史書の中には、そのような事例がたくさんでてくる。
万葉集では、名もなき兵士や罪人が歌を詠んでいる。
伊勢物語は『召使の少女』に恋をする貴公子の話だ。
欧州では考えられない話だ。階級の違う相手と恋をすることなど考えられないのだ。
だから『シンデレラ』は魔法を使って舞踏会に行ったのだ。
百姓は権力者とさまざまな手段を用いて、会話をしてきた。地頭や代官などに直訴した。
それが江戸時代に一揆となることもあった。
その結果、権力者は彼らの意見を聞き入れ、協力して藩を支えた。
江戸時代には、鉄砲がたくさんあったという。しかし、それが一揆で使われることはなかった。なぜなら、上位者と下位者が敬語を通じてコミュ二ケーションをとって折り合いをつけていたからだ。
「附す」という狂言は、そのいい例だ。
敬語を使って上位者と下位者の滑稽なコミュニケーションを面白おかしくしたのだ。
そこには、見えない階級という壁が立ちはだかっているからこそ、敬語を使って上位者を下位者が笑いをとれるのだ。
ところが現在の日本では、一見すると階級はない。誰でも能力と才覚があれば、いわゆる”支配層”になり上がれる。その規範の一つが、この『敬語』なのだ。
しかし、現在の『敬語』は規範であるから、形式ばかりが重視され『立場』だけが強調されることになった。
しかも、過去の支配者と異なり、下位者と対話する気などない。それは昨今の政治家、大企業の経営者を見ればよくわかる。
プロ野球買収問題で揺れた際、『選手ごときが…』と言ったのは記憶に新しい。
敬語は本来、上位者と下位者をつなぐ重要なコミニュケーションツールであった。そこで、上位者と下位者が折り合いをつけた決着をつけてきた。
ところが、現在は敬語は形骸化しただの規範となり、対話のためではなく相手の気分を害さないためのものとなった。
政治家の弁明や、不祥事を起こした企業、官僚、嘘の報道を行ったマスコミ…彼らはきっちりと規範を遵守し、丁寧な表現で謝罪はするものの、対話をする気などない。
このような謝った規範としての機能を敬語にもたせてしまったために、本来の敬語の役目を知らない成り上がりたちが自分たちの都合のいいように、コントロールしているのだ。
対話のためではなく、自分たちに受け入れさせるための規範として敬語を要求しているのだ。
一見、日本には階級もなく、平等な社会にも見える。しかし、そこには誰でも階級を移動ができるがため、社会的安定が損なわれてもいるのだ。
昨今の企業や官庁の不祥事とも無関係ではあるまい。
だから社会的安心が損なわれ、信頼が求められるのだ。
しかし、その一方で敬語が規範として使われ、対話というコミニュケーションは損なわれてしまった。政治や官僚不信や大企業との格差など、形式的な対応ばかりでそれが是正される様子はない。
それは敬語をコミニュケーションツールとしてではなく、規範として使い続ける限りなくならないのかもしれない。
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