朝生と若者を見殺しにする国2

 昨日の朝生は、雇用問題などといった格差社会が題材だったように思う。眠たくてほとんど覚えてないんだけど…。

 先日、紹介した『若者を見殺しにする国』でも散々指摘されていたが、結局、団塊の世代をはじめとした年長者が若者を酷使、敵視、搾取するシステムに問題があるということを観客席にいた人が指摘していた。

 おそらく、この問いに理路整然と回答できる人はいないだろう。パネラーたちもその場で取り繕いながら答えになっているようで答えていない回答になっていた。

 努力が足りないだとか、自己責任だ、という言葉だけで片付けられてしまいがちだが、実は恵まれた環境に自分たちをおき、そういった場所から若者を攻撃(批判)する姿は、何ら2ちゃんねるなどの匿名掲示板での落書きと変わらない。

 勿論、そういった特権を得るためにしたくもない勉強をしたり、下げたくもない頭を下げているという主張を私は否定しない。
 だが、その特権的地位(大手企業のサラリーマンや公務員)に一度落ち着いてしまえば、少なくとも、本人の能力そのもので評価されることにはならなくなる。
 同じ仕事をしても、その立場によってその賃金が大きく変わるのだ。

 そのような立場に自分をおいておきながら、努力が足りない、自己責任だというのは全く的の外れた議論で、ふざけた話だ。

 年長者が今豊なのは、時代がよかったという幸運と、その幸運を年功序列という絶対に覆らないシステムを作り上げたからだ。
 そこには、仕事と給料の見合った人材がどれだけいるのか、という疑問は残る。

 一方、バブル以降に就職せざるえなかった私たち世代は、年功上列などといったシステムは崩壊し、給料など上がらないシステムにしたのも、今の団塊世代だ。
 しかも、社会保障がままならないという自分たちの都合のために、若者にその費用を負担させようとする、仕組みが着々と進みつつある。

 こういった議論の一体どこが公平なんだろう(そもそも私は”公平”な議論なんてないと思っているけど…w)。

 簡単な例をあげると、団塊の世代の人たちは、中卒でも十分挽回できるチャンスが存在していた。
 今では、中卒はおろか、高卒、大卒でも一回ドロップアウトしてしまったら挽回できるチャンスは起業でもして成功しない限り皆無に等しい。

 そういった現状に目も向けず、嘘や方便を散々言って法外なギャラをもらうコメンテーターや御用学者(昨今の青学准教授の問題発言など)が、あたかも”高尚な”議論をしているかのように捉えられることの方が問題に思える。

 すべて年長者は悪くないという視点からのみしか語られることはない。
 馬鹿馬鹿しい議論だ。

 

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『若者を見殺しにする国』を読む

 一時期「『丸山眞男』をひっぱたきたいー31歳、フリーター。希望は戦争。」で話題になった著者の主張をさらに練り上げたものだ。

 彼の主張は、端的に言えば『仕事をくれ』『金をくれ』ということになる。ただ、この主張の背後には、このままでは首をつらざるえないという悲痛な叫びがある。

 確かに、彼の言い分、特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい」で彼を批判したいわゆる知識人(全くといっていいほど知識人でないのだが)に比べれば、説得力のあるものだ。

 たまたま就職氷河期時代に就職する年代になってしまったがために、ろくな職につけず、『自己責任』という言葉だけで片付けられてしまう、現状なんて平和でもなんでもない。
 真綿のようにじわじわと人を殺すことを厭わない現状のどこが平和で幸せなのか。冗談じゃないという。
 だから、いずれ100%自殺せざるえないのだから、戦争を起こして戦死したほうがマシだというのだ。

 彼の主張に、いわゆる知識人は答えることができない。屁理屈をこねるだけだ。

 この悲痛な叫びに、左派は回答できないのだ。その欺瞞に満ちた主張を彼は見逃さない。

 結局、どんな社会でも安定という名の平和の影には、既得権益者とそこで”徹底的に”搾取されるものがいる。現状では、非正規雇用者やフリーターと呼ばれる人がその最たる人たちで、彼らの叫びを彼が代弁しているのだ。

 そして、彼の主張の根幹は(もしかしたら本人は気づいていないかもしれないが…)、現在の価値観形成に対する疑念だ。言葉を変えれば、偏見。
 その価値観の中に自分を位置づけてしまっているという点において、無理があるような気がするのだが、だからといって、異なった新しい価値観で生きていこうという主張はみられない。

 たとえば、私なら引きこもり結構じゃないか、なんて思ってしまう。
 中世の貴族並みの暮らしだ。
 快適な空間の中で一生暮らせるなら、これ以上のことはないと思ってしまう。

 中世の貴族のように、外界が危険だから外に出られないわけではない。
情報はいくらでも入手することができる。人とコミニュケーションを取ることも可能だ。
 食べ物にも苦労しないし、中世より衛生環境も断然ましだ。
 交通網も発達しているから、別に車がなくたって簡単に長距離を移動できる。

 普段意識していないだろうが、今の生活は中世の王族それ以上だ。

 『金沢城のヒキガエル』や池田清彦が主張するように、食べれる分だけ稼いで、後は酒でも飲んで寝て暮らす、そんな価値観で生きてもいいんじゃないかなぁと思う。
 日本は十分そういうレベルの生活ができる水準だと私は思うのですが。贅沢は言わないという限定つきですが。

 ただ現実的に考えてみると、ごく恵まれた一部の人たちだけが、社会階層のトップに位置する一方、他の大多数はその可能性は宝くじにあたる程度のほんの僅かな可能性しかない。
 それは、大企業の正社員とフリーターの垣根にも通ずるものがあって、最初から大企業の正社員になるということを放棄してしまうというのも考え方の一つではないか。

 フランスのようにごく限られた一部のエリートは働きづめ、エリートになる可能性のない庶民は、そんなエリートを監視したり、バカンスや愛を囁くために働く。
  そういった価値観というのは今の日本にはないといっても過言ではない。
 それもありだと私は思うのだが。

 いずれ首を吊るという覚悟なのなら、せめてそれまではフランス国民みたいに気楽に生きてもいいのではないか、と思うのは私が恵まれているということのなだろうか。

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小麦

 池田信夫氏のブログで小麦粉値上げのカラクリが書かれている。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/dbd987bd69f54f27c2ecc36cf237b3b5

 以前、国内産の小麦は値上げはないと書いたが、こういうカラクリが背後にあったようだ。
 国内自給率云々の話は、農水省の利権拡大か、兼業農家を保護するためのものであって、安全保障上の問題ではない。

 『日本文明最強の秘密』でも指摘されているが、都市部が食糧不足に陥ったことはないのだ。
なぜなら、食糧を売ることでしか生活できない国や地域が存在する限り、食糧が輸入されなくなるということはないからだ。
 むしろ、食糧を買うために他のモノが売れなくなったりすることの方が重要だ。
 だから、戦争放棄を定めた憲法9条を守るべきだ、という主張なら筋としては通る。

 しかし、安全保障上、食糧自給率を上げなければならないという主張には、まったく説得力はなく、それは都市部がいまだかつて食糧に困ったことはないという事実をまったく無視している。

 こういう問題でさえ、小麦価格の高騰の影響で…という言葉だけで片付けられてしまうのってほんとどうかと思います。
 ってか既に小麦価格は3割近く下落しているんだけど…。
 まぁ、便乗値上げで内需が拡大してくれれば、それでもいいんだけどさ。

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成り上がりのための敬語

 敬語とは規範である、先日書いた。
しかし、歴史を辿ってこの敬語の使われ方を観てみると、ちょっと違った風景がみえてくる。
そもそも、敬語はなぜ存在するのだろうか?

『敬語で解く日本の平等、不平等』では、敬語は上位者と下位者をつなぐかけがえのない橋だったという分析がなされている。
たとえば、ノルマン王朝。彼らはフランス語で話をした。イギリス国民は勿論英語だ。
そこには会話はない。階級が違うから言葉を交わす必要性がないのだ。
だから、日本のような敬語は必要なかった。
世界の至る国で、敬語がないのは歴然とした階級が存在したからだ、というのだ。

 一方、日本では古来から敬語を使って支配層と被支配者層が対話をしてきた。歴史書の中には、そのような事例がたくさんでてくる。
 万葉集では、名もなき兵士や罪人が歌を詠んでいる。
 伊勢物語は『召使の少女』に恋をする貴公子の話だ。

 欧州では考えられない話だ。階級の違う相手と恋をすることなど考えられないのだ。
だから『シンデレラ』は魔法を使って舞踏会に行ったのだ。

 百姓は権力者とさまざまな手段を用いて、会話をしてきた。地頭や代官などに直訴した。
それが江戸時代に一揆となることもあった。
 その結果、権力者は彼らの意見を聞き入れ、協力して藩を支えた。

 江戸時代には、鉄砲がたくさんあったという。しかし、それが一揆で使われることはなかった。なぜなら、上位者と下位者が敬語を通じてコミュ二ケーションをとって折り合いをつけていたからだ。

 「附す」という狂言は、そのいい例だ。
敬語を使って上位者と下位者の滑稽なコミュニケーションを面白おかしくしたのだ。
そこには、見えない階級という壁が立ちはだかっているからこそ、敬語を使って上位者を下位者が笑いをとれるのだ。

 ところが現在の日本では、一見すると階級はない。誰でも能力と才覚があれば、いわゆる”支配層”になり上がれる。その規範の一つが、この『敬語』なのだ。
 しかし、現在の『敬語』は規範であるから、形式ばかりが重視され『立場』だけが強調されることになった。

 しかも、過去の支配者と異なり、下位者と対話する気などない。それは昨今の政治家、大企業の経営者を見ればよくわかる。

 プロ野球買収問題で揺れた際、『選手ごときが…』と言ったのは記憶に新しい。
 敬語は本来、上位者と下位者をつなぐ重要なコミニュケーションツールであった。そこで、上位者と下位者が折り合いをつけた決着をつけてきた。

 ところが、現在は敬語は形骸化しただの規範となり、対話のためではなく相手の気分を害さないためのものとなった。
 政治家の弁明や、不祥事を起こした企業、官僚、嘘の報道を行ったマスコミ…彼らはきっちりと規範を遵守し、丁寧な表現で謝罪はするものの、対話をする気などない。

 このような謝った規範としての機能を敬語にもたせてしまったために、本来の敬語の役目を知らない成り上がりたちが自分たちの都合のいいように、コントロールしているのだ。
 対話のためではなく、自分たちに受け入れさせるための規範として敬語を要求しているのだ。

 一見、日本には階級もなく、平等な社会にも見える。しかし、そこには誰でも階級を移動ができるがため、社会的安定が損なわれてもいるのだ。
 昨今の企業や官庁の不祥事とも無関係ではあるまい。
 だから社会的安心が損なわれ、信頼が求められるのだ。

 しかし、その一方で敬語が規範として使われ、対話というコミニュケーションは損なわれてしまった。政治や官僚不信や大企業との格差など、形式的な対応ばかりでそれが是正される様子はない。
 それは敬語をコミニュケーションツールとしてではなく、規範として使い続ける限りなくならないのかもしれない。

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敬語

 ここのところ、あまり読書をする気にならない日々が続いたのですが、移動時間がもったいないので、読書の時間に当てています。幸い、読書をするくらいの余裕はあるみたいです。
 ということで、読んだのが『国語審議会』(安田敏明著)。

 題名からして期待していなかったので、斜め読みで済まそうと思いましたが、最後の方に面白い記述がありました。

 先日も話題にした”敬語”に対する記述だ。
 この辺りの胡散臭さというものを、著者ははっきりと指摘している。

 国語審議は、敬語の使用はあくまで『自己表現』で主体的なものとしながらも、敬語を誤用してはならず、適切に使用しなければいけない、という。
 使用する場合には、

 すべての人は基本的に平等である。したがって、一方が必要以上に尊大になったり、卑下したりすることなく、お互いに尊重しあう気持ちを大事にしなければならない。 

 このような『相互尊重』の気持ちを基本として敬語を使うことが、現在も、また将来においても重要であろう。

 というもっともらしい見解を並べるのだ。
 著者も指摘しているが、『すべての人は基本的に平等』ならば敬語など必要はない。
しかし、『社会人は社会的立場を尊重すること』も敬意の表れだとして敬語を用いる。だとすれば、そこには『自己表現』や『主体性』などはない。

 結局、敬語を用いてることは規範に従うことに他ならず、『自己表現』を強調することで規範に従うことを自ら選んだと思い込ませる。
 そういった手法が気持ち悪いと著者は主張する。

 この件だけでもこの本を読んだ甲斐があるというものだ。

 このような論理のもつ気持ち悪さとは、『自己責任』や『自己表現』といった言葉であり、現代社会では成熟した自己が、この言葉に酔いしれる。

 これらの論理の気持ち悪さとは、簡単に言えば、自分たちの価値観に従えということだ。それをときには”共感”ともいう。
 そして、彼らの価値観に従わないものは排除するという本心を隠蔽しているから、気持ち悪いのである。

 やっぱり、私が実際感じたことは正しいような気がする。
 敬語というのは、あくまで規範であり、言葉ではない。
 言葉として捉えると「日本語独自」の奇妙な議論にしかならないからだ。

 敬語は社会規範なのだ。

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プロに勝つ方法

 いつも書いているけど、私はめったに外食をしない。
外食するのにお金を使うなら、新しい美味しい食材を探すということにお金を使いたいからだ。
その成果が、たまーに催す、旬処で披露されることになる(笑)

 我が家の審査員は、既に年老いているので目新しさだけでは当然、受け付けず、さらに既存の味を凌駕しないと、なかなか美味いといってくれない。
 そんな、ある種厳しい審査を突破した品がメニューを飾るのだがら、まぁ大概外れはない(笑)

 たとえば、この間の焼き鳥に使った”地養鶏”などは、おそらく10種類以上の鶏を食べ比べてみて、お勧めできる美味しい素材となる。
 この鶏は、以前店をやっていたときから扱っていたが、その後、比内鶏やその他の鶏とも比べた結果でもある。
 おそらく手に入りやすい鶏(ちょっとしたスーパーでも売っている)で、コストパフォーマンスのもっともよい鶏肉の一つだろう。

 古川修氏は『私のスーパーグルメ術』で
 http://www.9393.co.jp/furukawa/kako_furukawa/2004/04_0812_furukawa.html
 プロに勝つ秘訣を伝授している。
 結局、素材がよければ、手間などかけなくても美味しいのだ。

 記事にも書いてあるが、今でも焼肉屋で3000円使うなら、1500円のステーキ肉を200g買って食べたほうがよっぽど満足度は高いと思ってしまう。
 昔、両親が店をやっていた頃、どうしてみんな美味い肉を買わないで、外へ食べに行くのだろうと疑問に思ったものだ。

 経済学的にも、農畜産物の価格弾力性は低い一方、サービス業の価格弾力性は高いので誰かに調理を任せた時点で、その価格は素材の価値以上に跳ね上がる。

 それでもメディアが騒ぐグルメ番組に、両親は心を踊らされてしまう。
 自分たちが月に一度か二度、相当美味しいものを食べているという自覚がないのだ。慣れとは怖いものである。

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天然or養殖

 週末に築地に行ったところ、今までに見たことのないような丸々と太った真鯖を見つけた。
この時期に太った真鯖…というのは、どうも腑に落ちなく、聞いてみたところ『養殖』とのこと。
通りで太っているわけだ。

 昨秋、ミシュランから三星をもらった『すきやばし次郎』の小野二郎さんは、天然モノにこだわって、天然モノしか出さないらしい。
 そこにはある種の目利きの自信があるのだろう。

 築地の中でも、以前ほど養殖物だからといって、価値がないなどとはいわなくなったみたいだ。
一昔前なら、養殖の鯖なんてありえなかったのではないだろうか。
 昨日バーベキューで提供した、車海老や鰻は養殖と天然の差はほとんどないと言われるまでのレベルになってきている。
 鰻に関して言えば、旬の天然モノにはかなわないものの、泥臭さが抜けないなど処理がきちんと施されていなかったり、 時期はずれのものより、質が安定していてよいといわれている。

 勿論、旬の天然モノに旨さにはかなわないだろう。
 しかし、それを食するには、旬の時期と個性に溢れた天然の魚を目利きする力が必要だ。
 天然だから必ずしも美味しいわけではなく、養殖だから美味しくないという偏見は捨てるべきだろう。

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PASMOと回数券

 金券ショップや回数券を使うと意外に効果があったりする。
 とくに土日の回数券は10倍の運賃で14枚買えるわけだから、その効果は著しい。
 3ヶ月だけという期限のオプションがつくものの、約3割引で買えるのだから、お得だ。

 ところが昨今のPASMOの導入で、こういうメリットが電子マネーやマイルなどといった違った形の金銭で付与されるようになってきている。
 期限と行き先が限定されるという制限がつくが、何気なくPASMOを使うよりも全然お得だと思うのは私だけだろうか。

 PASMOなどを使うことによって、みすみす3割引のオプションを捨てているように思えてしまう。
 確かに、わざわざ金券ショップにまで行って10円や20円の差額を得るコスト(時間)は意味のないことかもしれない。
 ただ、同じサービスを受けるにもかかわらず、同一料金で済むのなら、回数券を買うという行為もあながち無意味とはいえない。

 土日の回数券は隠れた割安商品だと思うのは私だけだろうか。
 まぁ、確かに、土日はその分、他のレクレーション施設の料金が高いんだけどね。

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問題意識の欠如

 ここ数日、企業の研修を受けてみた感じたことがいくつかある。

 まず第一に、問題意識の欠如だ。
 研修を受ける前に、個人情報保護法の簡単な説明を受けた。
 日ごろから、物事を違う角度からみるくせがついているので(笑)、企業としてはどうしても意識せざるえないことであっても、どこまで本気で捉えているのだろうか、とふと考えてしまうのだ。

 確かに、社員の注意を引いたり、企業の信用問題にもかかわるので、個人情報保護法の社員教育を行うことは理解できる。
 ただ、聞いている限り、どうも『「法令遵守」が日本を滅ぼす 』でも書かれているように、形式的な法令順守ばかりに目が行き、根本的な法に対する目的意識が欠如しているように思える。

 たとえば、こういった情報漏えいの問題というのは、うっかりミス(忘れる、紛失する等)を除くとどれも、違法もしくは、常識の範囲外の利用者によってもたらされる被害ばかりだからだ。
 例のごとく、情報漏えいの槍玉としてwinnyなどが当然のごとくあげられていたが、アメリカではテレビ局や映画会社などが、winnyと同じP2Pソフト『ジュースト』を使ってオンデマンド配信を始めている。

 そもそも、現在の個人情報保護法は過度にプライバシー権を保護しすぎていて、過度な個人情報保護法対策は、池田信夫氏が指摘するとおり、表現の自由に対する侵害に他ならない。

 第一、この個人情報保護法というのは、プライバシーを配慮する人々ではなく、現在問題となっている社会保険庁のサボタージュや裏金を把握されたくない政治家、仕事を増やしたい弁護士などによって成立したといってもよい。

 以前、『日本の片隅で基本的人権とは何かを考える』http://bucchake.cocolog-nifty.com/bucchake/2005/02/post_1.html  でも指摘したように、そもそも日本人が抱く『基本的人権』という概念そのものが間違っており、そういった誤った認識の下で、聞こえのいい言葉で形成されるのが世論で、それがいつしか文化として形成されるのだろう。

 だから、企業でこのような個人情報保護法の説明を受けても、適切な情報の利用ではなく、過度な保護により事務処理コストが倍増するだけのような気がしてならないのだ。

 日本企業の生産性低下をもたらす大きな理由は①大企業経営者の保身と、そこからもたらされる官僚組織の肥大化と、②こういった過度な法規制であり、無意味で過剰な法規制が、さらなる生産性低下を招くことは間違いない。

 4月から施行されたJ-SOX法、今自民党が法案を通そうとしているネット規制など、今後も日本の生産性の低下を招く法規制は、ますます私たちを苦しめることになろう。

 企業そのものや、企業の担当者が形ばかり、場当たり的な法令順守を行うと、それを規制する官僚組織は肥大し、ひいては日本企業の生産性が低下し競争力の低下を招きかねない。

 日本の内需が弱いというのは、IT化や技術革新や工夫によってもたらされる生産性の向上よりも、こういった過度な法規制により、事務処理コストの増加の方がかかるからなのではないだろうか。

 日本の国民の消費行動を冷静に分析すれば、決して馬鹿な国民ではない。
 大手を振ってやってきた、ウォールマートやカルフールといった世界の小売業や、P&Gといった企業も日本のヨーカ堂やイオン、花王といった企業には太刀打ちできなかったことがそれを物語っている。

 しかし、こと法律に関することや、それがもたらすデメットに対する思考は停止しているといっても過言ではない。
 その結果が、昨今話題の年金問題であり、個人情報保護法であり、ネット規制であることは間違いない。

 日本国民は決して馬鹿ではないが、民度は決して高いものではない、といった方が適切なのかもしれない。

 

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フェネルバフチェ

 いやー勝っちゃいましたね。ジーコ率いるフェネルバフチェがチェルシーに。
 イングランド勢ばかり残って面白くないじゃん!ってのもありますが、ジーコの勝負強さってのは、やっぱり天性のものかもしれません。

 日本代表を率いていたときから、私はジーコが…と言ったことはありません(笑)
 なぜなら、選手自身に問題があると思っていたからです。
 特に、アジアカップやその後のイングランド、チェコとの戦いぶりなどをみる限り、選手の潜在能力を引き出す選手起用がトルシエよりも上手かったのは事実ですから。

 ドイツW杯では、そのジーコの神っぷりも、いくつかの不運が重なって勝ち点1という結果に終わってしまいましたが、それでも選手自身が一番の問題だったと思います。
 逆に言えば、自分の選んだ選手をあそこまで信頼する監督もなかなかいないのではないでしょうか。
 一流の選手だったジーコだからこそ選手の気持ちがよく理解できるのかもしれません。 このままの勢いだとそのまま突き進んじゃうかもしれませんね。

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